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toyomi.orgについて (2013.10.31)

日々のWEBセルフポートレート日記も15年目です。
2013年10月31日、ようやくワードプレスにすべての
過去日記のリンクをはりおえました。

今日、たまたまmixiで私はどんな日記を書いていたのかなと
4年前の10月の日記を見てみました。

過去の自分の決意や生き様がそこにありました。
「自分を救えるのは自分しかいない。」

今の自分の思いが未来の自分を勇気づけてくれる。
だから、日記はやめられません。

—–

「何かをあきらめたり、手放すたびに、写真の色が濃くなっていく。」
2009年10月24日01:35

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1318756831&owner_id=26693

私は欲張りで傲慢な女なので世界の全てを

永遠に自分だけのものにしたいと思っている。

そして、それが可能であるという、

根拠のない自信と妄想と勘違いと

思い込みのもとで生きている。

でも、現実はそうではなくて、思い通りにいかない。

自分の欲望を捨てきれずに「あきらめずに頑張る」という

選択をすることもあるが。

それでも、日々の生活のために、何かを手にいれるために、

何かをあきらめなければいけないこともある。

目の前の景色は私が選んだものなのだ。

そのことを痛感する出来事があった。

例えば、こんな写真を撮ったとする。

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これは、ただのひとり分の食事ではない。
ただの茶碗ではない。

これは、何年か前に、地元に残って欲しいという
家族の期待を裏切ってひとり上京してきた
私の東京のマンションでの食卓。

過去に、大好きな人と一緒に暮らすことをあきらめて
手にいれた「ひとり暮らし」だからこそ撮れた写真。

好きじゃない人と付き合って寂しさを紛らわす生活を
選ばずに、地道に誠実にひとりで生きていく
「ひとりご飯な毎日」を選んだからこそ撮れた写真。

本当は、ラーメンが食べたかったけれど
食べると太るのがこわいから食べたいのを我慢して
「一膳のごはん」を選んだからこそ撮れた写真。

目の前にあるものは、

私が選んだもの、私が手放したからこそ得たもの、

私が受け入れた環境そのものなのだ。

何かを手に入れるために、

人はどれだけのものを手放せばいいのだろうか。

私は、手放したくないものを手放した。

あきらめたくないものをあきらめてきた。

欲しかったものを、悔しい思いで捨ててきた。

本当は全部、欲しかったのに!!!

「何かをあきらめたり、手放すたびに、写真の色が濃くなっていく。」

目の前にある景色のすべてに意味がある。

目の前にある景色が、愛おしい。

人生において私が手にできるものは、

欲張りな私が望むものと比べたら

ほんの少しにしか過ぎない。

だからこそ、

大事にするんだ。

忘れないようにするんだ。

自分の選択に誇りをもつんだ。

生きるために写真を撮るんだ。

自分の人生を肯定するために私は写真を撮るのだ。

私がいつか、今回の人生を締めくくるとき

私が伝えたかった思いが、私の生き様が、

写真という形でこの世に残ってくれたら

それ以上の幸せはないと思う。

「何を撮るか」は「どう生きるか」ってことにつながっている。

写真にどれだけの思いを込められるか。

写真にどれだけ自分の人生観を映せるか。

「いい写真って何なの?」っていう議論がしばしば見受けられる。

私の答えはシンプルです。

その人の存在感のある写真。それがいい写真です。

みんな、自分を生きよう。私は私らしく生きたい。

私のことと、私の写真を好きでいてください。

私には写真しかないのです。

どーぞ、よろしく。