5月31日(夜) 「肩こりひどい」

肩こりひどいのでマッサージへ。
オイルでロミロミしてもらったお。
今日はLOVERSBABYLOVEの撮影だったのです。
お母さんが元気で笑顔というのが
いちばん幸福だ。

5月30日(夜) 「あいぱど。」

今日もあいぱどで遊ぶ。
夜は渋谷へ。
お友達にお友達のおうちに
つれって言ってもらった。
すごいアーティスト。
器が大きいいいい。
5月29日(夜) 「あいぱどと暮らし始める。」

夜更かして眠い
5月28日(夜) 「ヤマダにならんであいぱどこうた。」

仕事を休んで朝から
ヤマダ電器にならんであいぱどを買った。
こんなに夢中になったのは久しぶりである。
昼すぎに初台にUSTの打ち合わせ。
夕方から原宿で撮影。
夜はUSTの見学とちょこっと番組。
なにかと充実したオフであった。
偶然に駅ではるちゃんに出会う。奇遇。
5月27日(夜) 「どきどきして眠れない」

明日のあいぱどのこと考えたら
眠れそうにないので、夜のお散歩。
そしたら、ゆかちゃんに出会った。
真夜中の1時すぎにまさか
こんなところで出会うなんて。
やっぱり私たちは運命の姉妹なのだと
ふたりで喜んだ。
しかも展覧会の日程も場所も
同じだったなんて。笑える!
運命!これこそ!
5月26日(夜) 「簡単なことじゃない」

ふふふうふ。
でもそれでも信じる価値が
あるというものは存在する。
5月25日(夜) 「行きたい場所」

石があって、鳥がとんで、花がさいて
夕焼けがきれいな島国。
いちど、太陽公園というところに
いってみたいのだ。のだ。
5月24日(夜) 「ランチいく」

一緒に仕事をしているつながりで
誘われてランチへ。
なんかつまらない。
毎日、ほんと、つまらない。
こういうことが本当にむなしい。
5月23日(夜) 「デスクトップ中継」

デスクトップ中継してみた。
なんかおもしろい。
がんばろう、もっともっと。
5月22日(夜) 「なんだかな」

朝から新橋。
昼間は打ち合わせ。
長年のプロジェクトの
途中経過をきく。
もうっともうっとチャキチャキ動きたい。
5月21日(夜) 「今日はいちども」

つぶやかなかった。
別に意味なんてない。
ただ、依存していないことを
確かめたかった。
5月20日(夜) 「器をひろげたい」

悲しいこととか嬉しいこととか
悔しいこととか、喜ばしいこととか、
いっぱいいっぱい感じていたいのになぁ。
心の器がもっともっと大きくなればいいのにと思う。
そしたら、もっとアウトプットもたくさん
できるに違いない。
メモリも増設したいしね。
5月19日(夜) 「絶望と執着を手放す。」

本日も中村さんの思考をダダ漏れさせてみようか、と。
考えたことってメモしておかないと絶対に忘れちゃうので。


ついこの間も「絶望」がやってきて「思考」がフル回転して

なんだかひとりで疲れてしまった。

そんな私はいまだに「思考界」から抜け出せずにいるわけで(笑



あー。これはいつものパターンに陥ってしまいそうだと

気づいて、

そんな自分を客観的に観察するトレーニングを実行中。



昔のことをほんの少しだけ思い出す。


「絶望」なんて思考がつくりだす幻想でしかないのに

なかなかふりはらうことって難しかったなぁ、と

でも、努力したけどね。

なんとか頑張ろうって実際に行動してたのに、

いつもそばに「絶望」があった。

絶望とともに生きる人生!!


そんな生き方、続けていくのはもういやだなー。




そこで。

私の今の課題。


「絶望を手放すこと」




絶望を手放したいのだけれど

そもそも、

絶望の正体っていったいなんだろう??


と、いうわけでググってみたところ、


---------
「絶望」というと、言葉は大げさだが、
その正体は「自己実現」の挫折にしかすぎない、というのだ。
---------


と、このサイトに書いてあった。


http://www7.plala.or.jp/bumboo/amulet/6/np/np10.html


さらに読み進めると、

---------

「絶望」は、自分が正しいと思う主張が
受け入れられないところに生まれてくる。

道理が通 じないから「絶望」するのだ。

「絶望」する自分は、少なくとも道理に
かなっているはずだと信じている。

それが支持を得ないのであるから「絶望」するのだ。

だが、よく観察すると、

道理が分からないのは彼らであって、自分は正しい、

という自己正当化の気持ちが「絶望」の裏側には
流れているのではないか。 

---------


ですって!


頭で理解するより先に、心が痛くなった。


うわー。痛いなぁ、すごく心が痛い。

こんな文面ってなんども目にしたはずなのに

深く深く刺さってくる。

なんか見えそう。もうちょっと考えよう。



確かに。確かに。


「自分はここまでやったのに!」

「こんなに勇気をだして行動してるのに!」

「私、がんばってるのに!」

という気持ちがあるのにも関わらず

自分の思い通りにいかないと

「絶望」がやってくる。



自分勝手に「絶望」してるなら、

もうやめればいいのに

面倒なことに「執着」とセットでそれはやってくるので

「絶望しながら執着する」という

非常に面倒で扱いにく痛い人間に変化してしまう。



こーわーーいーーー!!!!


これをたとえば失恋とかに置き換えると、



「もう恋人と戻ることはできないと(絶望)しながらも

 もう一度、やりなおしたいと(執着)している」


こういうことでしょ?

私はこういう人間になっていないかしら?

なってたらどうしよう。なってないはずだけど!


それにしても、

私はなんと柔軟性にかける生き方をしてきたんだろう?

子供のころから「頑固」だといわれ続けてきたので

きっと先天的なものなんだろう。

努力で人は変われるので、ハンデをもって

生まれてきいたことをむしろ喜ぼう。

固いところと柔らかいところがある私はむしろ魅力的だと!

それにしても、真面目に生きすぎているなぁと思う。




自分が自分らしくあるために、

自分の軸がブレない人間になるために

たくさん自分のルールをつくってきた。

あ、そのこと自体が悪いことではなく。


「自分のあり方を定義すること。」

そのことは私に「安心」と「希望」を与えるものだった。




・私はこういう人間になりたい。

・こうすればきっとうまくいくはず

・こうしておけばだいじょうぶ

・ああして、こうして、こうなるから
 きっと、せいこうするのです



ここまではいいんだよね、きっと。

自分軸とか自分のルールは

ときにはすごく自分を助けて導いてくれる。



でも最近よくわかってきたのは、

そのルールにとらわれてはだめだ。ということだ。



自分で決めた自分のルールに

自分が支配されてしまってはだめだ、ということ。




前も書いたけれど


「人はもっていないものを手放すことはできない」


自分のルールや戦略をつくって手に入れることは

NGではないし、むしろgoodなことなんだけど、


「ルールをつくる」ということと「いつかはそのルールを手放す」と

いうことを

同時に覚悟しなければならない。



ん。覚悟っていうと言葉が重いな。


手に入れたものは、いつか、手放す時期がきたら潔く手放すことを

自分に気づかせてあげなければってこと、



これって恋愛でも同じことで


誰かを好きになって


一緒にいることになったとしても


「恋人になる」ということと「いつかは恋人を手放す」ということは

セットでついてくるということをちゃんと認識しておかないと。





絶望と執着にとらわれているうちは


新しい恋愛なんて無理だったってことですなー。



過去のトラウマを盾にこれまで何人、傷つけてきたかわかんない。

「傷ついてる」ことって免罪符でもなんでもないのにね。

「こっちにおいで」と差し伸べられた手を振り払って生きてた。
あーあ。ほんとうに。ほんと、ごめんなさい。

自分が幸せになれないことを人にせいにしててごめんなさい。
誰も信じられないとか宣っていた自分がバカでした。


でも、私はこれからは大丈夫だー。



絶望の正体も、執着の意味も

理解できてきたので


(なんで私って頭でわからないと動けないんだろう?
 ほかの人はこのへんもっと簡単に柔軟に生き方を
 シフトできているんじゃないのだろうか)



ようやく「絶望グセ」も「執着グセ」も手放すことがデキそう!



身軽にならないと遠くにいけない。

何かを手に入れたら、いつかはそれを手放すことを

知っておけばいいだけの話。



もしも、もしも、私の目の前に

「絶望と執着にとらわれて前にすすむ勇気をもてない人」が

現れたとしたら、ただ、抱きしめてあげよう。

過去の私がそうしてほしかったように。

自分が人を傷つけてここまでやっと、歩んできたことを忘れないためにも。

何があっても許していこう。そう決めた。





「絶望」と「執着」を捨てたら、どこまでも行けそうな気がする。



自分ひとりでも成立する「物質界」「感情界」「思考界」の上の

自分ひとりでは成立しない「○○界」へ。



あと、もう少しで行けそうな気がする。



あのね、私が行きたい場所は

「自由で孤独」な世界じゃなくて

「自由と共生」の世界。


5月18日(夜) 「きづいた」

!!!!!


過去の記憶や気になっていた出来事が

次々にリンクして

やっと1枚の絵になってきた。


このシナプスがプチプチとつながっていく

今のこの感覚がすごく快感!


だから「思考」そのものを「麻薬」みたいに

感じてしまうのだな。




まぁ、それはさておき、

ここ最近の私の脳内トピック


「思考に支配される自分からの卒業」

「思考界の上の世界への行き方」

「思考を自分ときりはなす方法」

みたいなことを、考えてて、バカみたいに

いろんな本を読んだり、人と話をしたりしてたんだけど




ちょっと視野をひろげてみて



「思考にとらわれている私以外の人」


のことも少し思い出したりしてました。





そういえば、

「同じ思考界の住人」として仲良くしていたのに

いつのまにか、疎遠になってしまっているなー


と感じる友達が何人かいて、

彼らが今、どこの世界にいるのか。


そう考えたら、答えはものすごく明確だった。






あぁ、でも、本当にそうだ。


思考にとらわれたままだと、決して、いけない世界というものがある。


間違って、その世界に、思考にとらわれたまま行くと、

さらなる苦しみがにとらわれることもわかった。



思考界の上の世界にいたのに、苦しみだけ抱えて

結局また思考界に戻ってきた人もいるんじゃないかと。



思考界とその上の世界をいったりきたりするのが

私のまわりの人たちに多いかも。




うわー。そうかそういうことか。

だから、あれがそれで、これがああで。なるほど!!



それからもうひとつ。




愛がいつのまにか執着に変わることはよくある話だけど

まさかそれが「自己愛」というカテゴリでも起こる現象だとは

思っていなかった。





私は自分で自分を愛しているつもりで


自分に執着していただけだったな、と。




自分を愛しすぎて、自分をぜんぜん、自由にしてあげられなかった。


自分が自分のために決めたルールでがんじがらめにしていただけなんて!


うわー。気持ち悪い。






思考にとらわれて生きる人の行く末は、悲惨だと思う。


私はその道を歩きたくない。



「自由」とか「孤独」とかって


どちらかを選ばなきゃいけないものでもなくて


自由でも孤独じゃない人生の歩み方って絶対できるはずだと思うし。






コントロールを手放すことと、何かに融合することってイコールじゃないけど、


幸せってひとりじゃ感じられないものなんだということを


今日、理屈じゃなく改めて思った。


というか、次の上の世界は、感情界や思考界とちがって


「ひとりでは成立しない世界」ということだ。





で、このことを気づくきっかけになったのは

とある人の映像を見てたからなんだけど


その人のすごいところは



物質界の人間も、感情界の人間も、思考界の人間も

全部を味方ににつけて、思考界の上の世界にいっちゃったってところだ。



すべてを受け入れて、肯定して、そこからさらに前にすすむだけのエネルギー。



「ひとりでは成立しない世界」へ行くためにひつようなエネルギーを


どうやって調達したのか、私はなんとなくわかるけど。






とにかく今日はすごくわかった。

もう考えるのをやめる。


自分の中で今日、気づいたことを熟成させる。3時間くらいで。

5月17日(夜) 「わかった〜〜!!」

あぁ、そうか。そういうことなのか。



ここ最近自分のまわりで起こる「??」の違和感の正体を


ずっと気にしていたのだけれど


やっと理解できた。まだぜんぶじゃないかもしれないけど。






私をとりまく世界が変わっているのに


私だけ変わっていなかった。






そういうことか、




うん、わかった、わかった。



合点がいったので、今すぐ動くけど、

もう少しだけ時間がかかりそう。



5月中にはなんとか。


5月16日(夜) 「なににもとらわれないじぶんになること。」

この道を歩いていって

私はどこにたどり着きたいのかなぁと

未来をぼんやりイメージしているのだけど

究極は「なににもとらわれないじぶんになること」だな、と。

でも、ここからは遠いな!

その場所はとても遠いなー。と思う。




モノにも、感情にも、思考にも支配されない自分になりたい。


今の私は「思考と一体化」しているので、

自分と思考とをまず切り離して観察してみたい。

「思考している自分」を客観的にあるがまま見つめるもうひとつの目。

「思考を手放す」ということは、そういうことなのだと思う。

「あぁ、私また考えすぎてるな。」と気づくこと。





で、思考することは「感情の痛み」から

自分を守る為の「戦略ツール」みたいなものだから、


思考を手放すには「感情の痛み」をある程度

受け入れる覚悟みたいなものが必要な気がする。




あるいは、「感情の痛み」を「生きることの喜び」に変えちゃうほどの

何か劇的な出来事あるいは認識を変えてくれるような「思想」が。



一休さんは鳥の鳴き声をきいて、悟りをひらいたそうな。







一歩ふみだすには、もう一段の上のレイヤーにいくには


何か足りないって思う。理屈じゃなくて感覚的に。



でも、その「何か」がわからない。






モノと一体化する「物質界」

感情と一体化する「感情界」

思考と一体化する「思考界」

○○と一体化する「○○界」

宇宙と一体化する「天上界」




抽象度を高めていくといいのかなぁ。


でも、前に書いたとおり、もっていないものを

手放すことはできないんだよね。

知識でも経験でも、もっていないと手放せない。


だからもっと知りたいし、もっと体験したい。


痛いことも苦しいことも体験しないと手放せない。


だから、考えるよりまずは行動したほうがいい。


頭で考えてる妄想より現実のほうがずっとやさしい。






そもそも、こういうことを考えてしまうこと自体


「思考病」なのだということに、いま、気づいた!!!!



ちょっと走ってくる!!身体を動かさないと!!!

5月15日(夜) 「人は手に入れたものしか手放すことができない。」

ここ最近は「悟りへの道をウォーキング」週間にして

思考を手放したり、自分を客観的に見ることをしている。


あらためて気づいたことなんだけど、


「人は手に入れたものしか手放すことができない。」



いつのまにか「未来の希望」まで手放さなくてはと

思ってた。



思考の無限ループ。

そろそろ、

き!け!ん!

5月14日(夜) 「アホでもない」

世の中の仕組みがほんの少しわかってきたー。


私のまわりにいるお友達は

とにかく「思考界」の住人が多いのです。

仕事でコンサルっぽいことしてるからかしら。


みんな頭がよくて理論的でスマートで話もおもしろくて

とっても素敵なんだけど、

最近、みんな似たような悩みをもっておる!

それは脳の老化。発想力の低下!!

今まで理詰めで考えていたことが、

昔みたいに効率よく考えられなくなって

他の能力を開発する必要があることを感じているのだけれど

それをどうやって開花させたらいいんかわからない。

そして「思考が毒になることもある」という事実に

気付きはじめている。




これって何なのかなぁ。

私たちが次のステップにいくためには

どうすればいいのかなぁ、と

ずーっとぼんやり考えてました。




今まで私に見えていた世界というのは

次の3つの世界です。



「物質界」→「感情界」→「思考界」


ひとつずつテキトーに説明すると…


あれが欲しい、これが欲しいと、物欲に支配されて
次々と欲しいものを手にいれるけれど
ぜんぜん満たされないでいる人たち。

これが物質界。


さみしい、うれしい、悲しい、たのしい、会いたい、
大好き、大嫌い、うざい、いらつく、
ちょっと、マジで?やばくねーー??

モノには満たされているものの
感情に支配されている人。

感情豊かに生きているようで
実際は気分にふりまわされていて、
他人の言動や行動で左右されて
自分軸がなくて、
ぜんぜん満たされないでいる人たち

これが感情界。




原因。分析。検証。対策。戦略。

モノや感情やだけでなく自分をとりまく環境も
我がの思うがままにコントロールしていたい人。

戦略をたてること、自分を律することで、
すべてをコントロールできると思っている人。

どんなに頑張っても思うようにいかない現実に
打ちのめされて絶望する人たち。

自分の思い通りにならない状況に
満たされない。

自分を責めることが大得意。

これが思考界。



で、私が今、住んでいるのがこの「思考界」。

戦略的思考が楽しいときもあるけれど、この苦しみはなんとも。



「物質界」→「感情界」→「思考界」

上を見上げたら、あといくつかの世界が見えた。



いちばん上は「天上界」。

天上界の住人といえば、ダライラマとかマザーテレサとか。

私はそこまでいけるかなぁ。

別に今すぐいきたいとは思わないけど。



でね。


最近、気付いたこと。



「思考界」と「天上界」の間に

もうひとつの世界があるのではないかと。




「物質界」→「感情界」→「思考界」→「○○界」→「天上界」




よし、思考界から解脱して次の世界へ。

でも、動き出すのはもう少し考えてから(笑)






ちょっと前に、思考を手放せた瞬間があったんだけど

あれはすっごくすっごく幸せだったなぁ。
5月13日(夜) 「おこうのせいじゃないだろうか」

おこうのせいのようなきがするよ。
のどがいたいのは。
5月12日(夜) 「心が痛いときは」

心が痛いときはどうすればいいのでしょうか。
寝る。そうする。
5月11日(夜) 「起きたら風邪をひいていた」

からだじゅうが痛くて
のどが痛くて
心まで痛い。

いや、心は頑丈なので
別に痛くもなんともない。

睡眠不足とエネルギー不足だな。
青汁のんで今日もがんばる。
5月10日(夜) 「ウツイート」

こんなにつらいのに
生きてる意味がわからん

…とか昔なら平気で書いてたな。
いまはそういうこと思わないけど。
5月9日(夜) 「思考界から脱出させてくれる人」

思考にとらわれ、思考に支配されていた私。
どうすれば次の上のレイヤーにいけるのかと
ずっと考えていたら(←考えて答えがわかるものでもないが)
あっさりとその答えを教えてくれた人がいました。

私はその人がひとの何倍も傷つきやすくて
ひとの何倍も自意識過剰で
共感力、共鳴力が高い人だと知っています。

その彼が見せてくれた世界は
自分の感情(ドロドロしたものも含めて)を
吐き出し、

自分の生き方(情けないモードも含めて)て
ぶつけあい

それでも、そんな自分たちが好きなんだ、
必要なんだ、すごく愛しているんだと
全肯定してくれる場。

あぁ、そうか。
こういうことか、と悟りました。

モノにとらわれ、感情にとらわれ、思考にとらわれ、
全然自由になれない私たちを
彼らは救ってくれるのです。


なんか宗教みたい。

いいね、そういう音楽って。ライブって。

5月4日(夜) 「横浜ひとり旅」

朝起きてどこに行くかを
おみくじみたいなもので決めた。
行き先は横浜にした。
神聖なものを撮る。
それだけしか決めていなかった。
教会とかそんな感じのものが
撮りたかったので山の手の異人館あたりへ。
墓地を撮った。癒された。
いい写真が撮れたのでよかった。

私は愛されているなぁと思う。
なんていうか、地球規模で。

必要な時に必要な場所へ
導かれる。

この幸せをなんといおうか。
5月3日(夜) 「がーるずとーく」

農民カフェでガールズトーク。
昨日あんまりよく寝てないので
眠い目をこすりつつ。
みんな苦しみを抱えながら生きている。
私だけじゃないんだなぁ。
ぜんぶ、手放せればいいのに。
「愛されたい」という欲望がいちばんやっかいだ。

さんざんおしゃべりしたあとは中野へ。
また話をきいてもらって
人生における重大なヒントをもらってきた。

それはつまり
「焦らないこと」である。ある。

5月2日(夜) 「鎌倉の夜」

鎌倉にいく。
前に一度いったことはあるけれど
そのときは観光とかしてなかった気がする。
まぁ、今回もそんなに観光していないけど。

今日は書きたいことが書けない。
書いておきたいけれど書かない。
久しぶりに朝日を見たな。
5月1日(夜) 「過去を感謝で手放す」

突然の連絡。
今日はとっても懐かしくて大切だった人に出会う。
6年前の話をして、あの時、楽しかったね、と。
全然、変わってないなー。見た目とかいろいろ。
でも、あれから6年も経ったんだね。
不思議だね。出会って10年なんだね、と。
ねー初めて会ったとき、どんなこと思った?
って何度もくりかえしたような気がするなこの会話。

6年も経てば苦しかった思いもほとんど忘れて
楽しかったことばっかりだったような気になる。
人間の記憶ってよくできているなぁ。

言いたいこと言ってきた。
当時は身がもげそうなくらい痛かったんだ、と。

あのとき私が「苦しみながら手放した大切なもの」を
今は喜んで感謝の気持ちで手放せるようになってた。

手を伸ばせば手に入れることはたやすいかもしれないけれど
ほんとに大切なものじゃないから、いらないな。
今の私には必要ないな。

じわじわと心が柔らかくなっていく。
孤独だなぁ。ほんとうにひとりなんだなぁ、と。
私を縛っているのは妄想だけだ。

「そろそろ、前にすすみなさい」と
いわれたような気がする。

自分が振返りたい過去がこんなにも
やさしく私を受け入れてくれたことに感謝。
ありがとうしか言えない。

本当に大好きだった。(過去形!!)